株式会社テイン
製品紹介 製品検索 在庫情報 販売店情報 モータースポーツ情報 通信販売 取扱説明書 スペシャル オーナー
HOME >> モータースポーツ >> ヒストリー >> History of TEIN SPORT

テインが横浜の地に産声を上げたのは、1985年のこと。ラリーショップでメカニックとして働いていた市野諮が創業し、ドライバーの藤本吉郎もほどなく勤めを退職して経営に参加した。7坪の工場兼事務所から始まったテインの事業は、ふたりの情熱とラリーにかける想いによってここから羽ばたいていくのだった。

事業を軌道に乗せることと同時に開始したラリー活動は、全日本ラリーに始まり、そして創業2年後の1987年には念願の海外ラリー、香港・北京ラリー挑戦へと発展して行く。そしてさらに2年後の1989年には「テインスポーツ」はついに世界最高峰のWRCへとステップアップしていった。

1993年の暮れから、藤本はトヨタのワークスドライバーとしてTTEのあるドイツ・ケルンに活動拠点を移し、世界最高峰のスキルを身につけるため粉骨砕身の日々を送った。そして、大黒柱のドライバーを一時的に失ったテインスポーツは、香港のスタードライバー、マイケル・リュウを招聘し、市野の采配でオセアニアのラリーを戦っていた。この時期が、その後のテインスポーツのラリーパフォーマンスやチームマネジメントの実力を養う期間となったことはいうまでもない。

そして、1995年。WRCサファリラリーで藤本が念願の日本人初のウィナーに輝くと、TTEのサテライトチームとしてワークスドライバーとは別の活動ができるようになった。そして、目覚ましい活躍を見せたインドネシアや香港・北京、そしてニュージーランドやオーストラリアでは「テインスポーツ」の名は、高いステイタスを持つまでに成長していったのである。

1996年からは日本人若手ドライバーの育成プログラムを開始。小西重幸らを起用したこの計画は、その後の日本人ドライバー海外挑戦ブームのきっかけとなったと言える。そして、カローラWRCによる鎌田卓麻のWRCチャレンジへと受け継がれて行くことになる。一方、1998年のアジア・パシフィックラリー選手権のチャンピオンとなった
藤本が彼らのサポート役となって支えたことが、プロフェッショナルラリーチーム「テインスポーツ」の特徴でもあった。そして、世界最先端の技術を盛り込んだ当時のグループAラリーカーを直接メンテナンスできたことが、テインスポーツ、そしてテインそのものの技術力の醸成に大きく影響したといって過言ではないだろう。

2004年に日本で初めて開催されたWRCイベント、ラリー・ジャパンには藤本は00カーのドライバーとして参加していた。そしてある日、0カー・ドライバーのトミ・マキネンと札内のSSS会場で固く握手しハグする姿が見られた。「Long time, No see(いやーっ久しぶり)」とふたり同時に言い、暫く握った手を離さなかった。寡黙で知られるマキネンは多くを語らなかったが、互いにリスペクトし合う男達の姿は清々しく、そして感動的であった。


そして、2005年、藤本吉郎が再びWRCの現場に帰ってきた。
今度は自チーム「テインスポーツ」としてではなく、世界を目指す若者達、躍進するチームをサポートするために。


Home Top of page
株式会社テイン
Copyright TEIN inc. All rights reserved.